[踊る大捜査線]


〜容疑者公開前の勝手な妄想話1〜

行かなくちゃ!!行かなくちゃ!!行かなくちゃ!!
あの人の所に!!
だって、だって、だって!!
だってあの人、いなくなっちゃう!!


当直続き。
その挙句の大捕り物に、俺は精も根も尽き果ててた。
とっ捕まえた犯人達の一人を、手近の署員に預け、
後ろから来ていた森下君に手を合わせ、拝むようにして言った。
「マジでゴメン。俺、もう限界。30分でいいから休まして」
ジットリと森下君が俺を見るのも最もで、確か森下君も・・・・・。
でも「仕方ないですね」と一言。
森下君は自分の捕まえている犯人から片手を離すと、
サッサと行けばかりに手を振った。
ぱぁと思わず笑顔の俺。
もう一度、その後ろ姿に手を合わせると、
俺は自販機の傍のソファーへと足を向けた。
とにかく今は、とにかく休みたい。
ソファーに転がる前に、一服だけ。
そう思って愛用の煙草に火を付ける。
一服。ホンの一服。
二口目を吸い掛けた時、小さな旋風が遣って来た。
「青島君!!」
「もぅ〜頼むよぉ。俺、疲れてんだよね。ね、すみれさん。
 後生だから休まして。後でゆっくりお喋りでも食事でも付き合うから、ね?」
一気に言って、俺は自分の左腕にしがみ付いている同僚の女刑事を見下ろした。
俺の位置からでは、彼女の旋毛しか見えない。
けれど、俺の腕に伝わる彼女の身体の震えから、尋常でない[何か]を感じた。
「・・・すみれ・・・さん?」
意を決した様に、ようやっと面を上げたすみれさんの整った相貌は、
不自然な程白かった。
なまじ整っている分、凄みさえ感じる程で、
俺の感じた[何か]がどれ程のものなのか、
最早、徹夜続きで労働過多の草臥れた頭では、想像も出来ない。
「・・・・・む、室井さんが・・・・・」


−室井さんが、逮捕された−


真下を通じて、一旦は俺に届くはずだった知らせ。
けれどその時、俺は外で大捕り物の真っ最中。
旧知のすみれさんが代わりに聞いた。


うそだ!!うそだ!!うそだ!!
あの人が!!
選りにも選ってあの人が!!
逮捕されるなんて!!


行かなくちゃ!!行かなくちゃ!!行かなくちゃ!!
あの人の所に!!
だって!!だって!!だって!!
警察官、辞めたら!!
あの人きっと、いなくなっちゃう!!


待ってて!!待ってて!!待ってて!!
俺が行くまで!!
いなくならないでいて!!
俺が会いに行くまで!!


〜容疑者公開前の勝手な妄想話2〜

私は徐に、それまで背中を預けていた壁から身体を起こすと、
そっと部屋を後にする。
もう然程待たずして、部屋の中は一気に怒号と混乱と喧騒に包まれる。
その渦の中から、私だけは一足先に逃れる事にして・・・・・。


人気の無い廊下を、私だけが歩いてゆく。
突き当たりの角を一つ曲がり、途中の角でもう一つ曲がる。


其処に、男は立っていた。


「室井警視正ですね?」
知っているクセに、一応は段取りを踏んでという感じで尋ねてきた。
不愉快を押し隠し、私は応えた。
「そうだが・・・君は?」
「失礼しました。
 私(わたくし)東京地検の検察官で、土谷と申します」
「・・・・・東京地検?」
男は、まるで私とチェスでもしていたかの様な口調で言った。
そう。
「チェックメイト」
とでも言うように。
「本日−−時。
 貴方に逮捕状が出ました」
「・・・・・な・・・・・に・・・・・・・?」
「御同行、願います」
有無を言わさぬ口調だった。


___ これは 何かの間違いに 違いない ___


己の血溜まりの中でさえ、私を気遣ってくれた君。

「信じてる!!」と、たった一人叫んでくれた君。

何時辿り着けるか定かでもない程の高みを目指す私を、

何時までも、何処までも、待っていると言ってくれた君。

慟哭しのたうち回る、私の魂の傍らにそっと寄り添ってくれた君。

季節の移ろいを、市井の人々の機微を教えてくれた君。

人を愛し、恋うる事を教えてくれた君。


けれど・・・・・

けれど・・・・・

ああ、けれど・・・・・


「青島、君との約束は果たせそうにない」

〜容疑者公開前の勝手な妄想話3〜

目的地に向かい、赤信号さえ振り切りそうな勢いで、
やっと変わった青い信号にアクセルを踏み込む。


勤務明けを待ち侘び、就業と同時に同僚の一人を捕まえ、
無理を言って貸して貰った車を駆って、
署から飛び出した頃には、夜もすっかり更けていた。
晴海通りを霞ヶ関方面へと直走る。
目的の建物への最後の直線を奔り切って、
俺は地下の駐車場の入り口に車を乗り入れようとハンドルを切ろうとした。
「!!」
今まさに曲がろうとした車の目の前の脇道から、
真っ黒な影が突っ込んできた。
コチラの車と、真っ黒な影。
咄嗟に切ったハンドルに、軽くスピンして互いの鼻面をつき合わせる格好で
如何にか止まる事が出来た。
漸く、黒い影が車だと気付く。
行く先を塞ぐ格好のまま、相手の車が移動する気配は無いが、
相手が動いてくれない限り、コチラの車は目当ての建物に入れないのだ。
俺はイライラと相手を睨み付ける。


今にも焼き切れそうな俺の精神。
とうに我慢は限界だった。
その場に車を乗り捨て、俺は徒歩で向かう事にする。
もう、完全に目の前の事しか見えなくなっていた。


相手の車の横を過ぎようとした時、いきなり後部座席のドアが開き、
また俺の行く手を遮った。
一瞬立ち竦んだ俺は、次の瞬間には殺意さえ覚える。
「また・・・アンタですか・・・・・」
口から出たのは、自分自身でも信じられない程闇い声音だった。
返事の代わりに、ヌッと大柄な身体が車外へと押し出してきた。


一倉正和。


「所轄の狗は、さっさと自分の縄張りに帰れ」
どうせ言われるだろうと思っていた言葉。
俺は言葉を返すつもりも無く、無視して脇を通り過ぎようとした。
相手の手が動く。
俺の片方の腕が掴まれた。
振り切ろうとしたが、万力で締め付けられた様にビクともしない。
焦りと怒りで、俺はソレこそ[狗]は[狗]でも野犬のそれの相貌で
相手を真正面から睨み付けた。
けれど、それ位で怯み手の力を緩める相手ではなく・・・・・。


「アイツの所には・・・・・行かせねぇぞ」
「・・・・・」
「テメェ・・・自分の立場、解かってんのか?
 アイツの周りでテメェがチョロチョロしだしてからのアイツの立場、
 見る間に危なくなってきてるってのに・・・・・。
 まさか気付いてないってんじゃねぇだろうな?」
「俺は・・・!!」
「黙れ!!
 誰が口利いて良いっつった。
 所轄の分際で、勝手すんじゃねぇ!!」
一息置いて、吐き捨てるように投げ付けられた。
「この身の程知らずの、疫病神が!!」
俺は拳を握り締める。
「今テメェがアイツの所に行ってどーするよ?
 あん?何か考えが有るってのか?
 有るんだったら聞かせて貰おうか?」
ギリギリと噛み締めた奥歯が音を発てる。
「テメェなんかがしゃしゃり出て来たって、
 今のアイツにゃプラスにはならねぇ。
 むしろマイナスになるだろうよ。
 何せテメェは警視庁一の[トラブルメーカー]だからな」
目の前が赤く染まる。
「いいか、アイツの所へは行くな。
 アイツの事を少しでも思って、助けるつもりなら行くな。
 テメェなんざが行ったって無駄なんだ。
 いいな?」


言う事だけ言うと、一倉は踵を返し、
再び後部座席へと体を乗り入れドアを閉めた。
パワーウインドウが微かな振動音と共に下降する。
駄目押しの一言に、俺は力なくその場で項垂れるしかなかった。


「アイツはテメェにゃ会わねぇだろうよ。
 テメェにだきゃ・・・アイツは会わねぇ!!」


夜に溶けて消えてゆく、闇の色の公用車の真っ赤なテールランプ。
見送る事も出来ず、俺は項垂れ立ち尽くす。
見るとも無しに見る足元のアスファルトに、一粒、二粒落ちてきた雨粒は
直ぐに本降りとなって俺を頭の先から爪先までずぶ濡れにした。


この雨は、この先暫く止む事はなかった。

[煙草]

おもむろに、室井さんが顔を寄せてきた・・・と思ったら、
頭の天辺やら上着の胸の辺りやらをクンクンやりだした。
「ど、どうしたの?」って聞いたら
「ウチの部下の誰かしらが、最近君と同じ銘柄の煙草を吸い始めたみたいなんだ」
だって。
「へぇ〜そうなんだ?」そう言いながら見ていたら、
チョッピリ赤くなってソッポを向いた。
「?」首を傾げる俺に明後日の方を向いたまま、室井さんは言った。
「君が隣に居てくれる様で、嬉しいのだけれど困るんだ」


[月見]

朝夕の涼しさが、昼間の暑さに錯覚してしまいそうだが
やはり夏は行ってしまったのだと教えてくれる。
それでも9月の中旬のこの時期ならば、
まだ浴衣を着ても然程不自然とは言われないだろう。
その夜、室井は浴衣姿で縁側に居た。
懐手で縁に立ち、軒先越しに月を眺める。
中秋の名月。
ニュースで盛んに「明日は」「今日は」「今夜は」と連呼され、
普段仕事に追われ、季節毎の情緒のある年中行事等には
とんと縁の無い室井でさえも流石に憶えていて、
帰宅後、一人秋の夜空に月を探しに出てみたのだ。
けれど探すまでも無く、普段の数倍は大きな其れは、
天空にぽっかりと浮かんで室井を見下ろしていた。
春の月の朧な暖かさ、昼間の暑さの引かぬままの夏の月、
肌を突き刺す冷たい冬の月。<br>秋の月はそのどれとも違う。
暑さも寒さも感じさせず、何処か覚束無げ、
それでいてどの季節の月より皓々と明るい。
かさり。
庭の終わりかけの桔梗撫子が揺れて、枯れた部分が擦れ合い音をたてた。
「帰ったのか」
庭の枝折戸の脇の暗がりに、青島が立っていた。
「ただいま、帰りました」
言いながら、青島は月明かりの下へと一歩踏み出す。
脱いだ上着を片手に、真っ直ぐ室井の方に近付いてくる。
「何してたんです?」
「月を見ていた」
「お月見っスか?」
「風流だろう?後ろ、見てみろ。[中秋の名月]だ」
青島が、背後の空を肩越しに振り仰ぐ。
「デカイですね・・・デッカイ月見団子かどら焼きみたいっスね」
「・・・・・ナンだ、それは」
「ナンだって言われても・・・・・」
後頭部を掻き掻きへへへと青島が笑う。
ハァと室井が大きく一つ溜息を吐く。
「私が悪かった」
「へ?」
「君に[情緒]とか[風情]とかを求めた私が悪かった」
むぅと心無し青島の口元がへの字に曲がる。
大の大人の男にしては子供みたいな青島の表情に、
室井は苦笑を漏らしつつ言った。
「腹、減ってるんだろ?それとももう、途中で済ませてきたか?」
「や、それは・・・まだっスけど」
「じゃ、さっさと上がって手だけでも洗って来い。
一緒に食おうと思って、夕飯食わずに待ってたんだ」
「は、はいぃ♪」
ぱぁと笑顔になった青島が家に上がろうと、縁側の縁に足を掛ける。
身軽な動作で上に上がった青島に、
いつの間にやら縁に跪いて青島の脱いだ革靴を拾い上げていた室井が
青島の手にそれを手渡す。
「ほら。急いで行って来い」
「あ、スイマセン」
恐縮しつつ、自分の靴を受け取りかけた青島が一言、
縁側に膝を付いたままの室井の前に自分も素早く屈み込んで耳元で囁いた。
「急いで手洗ってきますから、夕飯ちゃっちゃと済ませましょう。
 んで、こんなに綺麗な月夜なんです、
 たまには月明かりの下でなんてどうですか?」
間近でにんまりと笑う青島に、室井は顔色一つ変えず、返事の代りに・・・・・・
力の限りに遠くへと、青島の革靴を放り投げた。
靴は庭を飛び越え道路へと飛んでいった。
「ああーっ!!ひでぇ!!まだ買ったばっかなのに!!」
「そんなに大事ならさっさと拾いに行け。
そんでもう、そのまま帰って来んな!!」
「わーっ!!室井さん、怒んないでぇぇぇぇぇ!!」
満月の夜、月に向かって狼男は雄雄しく遠吠えするらしいが、
都内某所に住む狼男のなり損ないの駄犬は
おかんむりのご主人の膝に抱きつき
泣きを入れるのに忙しかったとか。

[芒木菟(すすきみみずく)]*[月見]の続編です*

気まずい沈黙が、食卓を覆っていた。
先程の青島の不埒な発言が尾を引いているのだ。
黙して語らない室井を、互いの事をよく知る前ならば
「こんなもんだよな」と軽く考え流していたかもしれない青島だったが、
こうして二人で暮らすほどの仲になった今は違う。
(この状態は拙い!!)
と、解り過ぎる程解ってしまい冷や汗が背中を伝う。
自分が蒔いた種だったが、咄嗟に刈り取り方が分からない。
静かな面の下で、余程機嫌が悪いのだろう、
室井の方も今だ箸さえ取らず、目の前に用意してあった冷酒用の
切子の酒器さえ手に取らないままだ。
向かい合って席に付いている青島は、
ただただ只管に要らぬ汗を滴らすばかり。
懐手のまま目を瞑る室井に、いた溜まれず逸らした先にソレは有った。
「アアーッ!!」
一言叫んだ青島は、驚いて目を開けた室井ににぱっと笑ってみせた。
それから大急ぎで座敷の片隅に打っ遣っておいた通勤鞄へといざり寄る。
普段から道で配られている試供品やチラシの類を、
ついつい無下に断れず貰って仕舞い込んでいるせいで
お目当ての物は鞄の底まで手を突っ込んで、やっとの事で引っ張り出せた。
急いで戻ってきた青島の差し出す掌には印刷の一つも無い、
灰色の再生紙で出来たみたいな化粧っ気の無い掌サイズの箱。
不機嫌だった事も忘れ、思わず室井は常から大きな瞳を更に見開き、
眼の前の箱を凝視した。
<br>青島が笑いながら言う。
「昼間、署に遊びに来てた和久さんが室井さんに持ってけって」
「和久さんが?」
こくりと青島が頷く。
「私に?」
もう一つ。
思い掛けない事に驚いた室井は懐手を解いて、片手を伸ばす。
蓋ごと持ち上げた箱は思いもよらない程の軽さで、更に驚いた。
何が入っているのか、さっぱり見当もつかない。
困惑の態で、室井は手にした箱を開けもせず眺めている。
「開けてみてください」
そんな室井の様子に、微笑みながら青島が言った。
「きっと、今夜の事考えて持ってきてくれたんですよ、和久さん」
「今夜の事?」
「そう」
「[お月見]って言えば?」
「?」
「[月]・[月見団子]・[月見酒]って、
 俺だと飲み食い関係ばっかりになっちゃいますけど、
 他にも大事なものがあるでしょう?」
もう一度、にっこり室井に笑い掛けた。
室井の空いている方の手に、自分の手を重ねて箱の蓋に乗せさせる。
二人の手で、そうっと蓋が持ち上げられる。
最初覗いただけでは、室井には中の物がよく識別出来なかったらしい。
代わりに青島が箱の中身を口にした。
「[芒(すすき)]の穂で出来てんですよ」
青島が箱を取り上げ、中身を取り出して室井の掌に載せた。
室井の目元が和らいで、口元に笑みが浮かぶ。
可愛らしいススキで出来た木菟がちょこんと、
室井の掌から愛嬌の有る表情で見上げていた。
「[芒木菟(すすきみみずく)]か、初めて見た。
確かにススキだ」
「去年出来たヤツらしいんだけどなって言ってましたよ」
「そっか、けどホントにめんけぇなぁ・・・」
いつの間にか隣で覗き込んでいた青島に、室井が柔らかに微笑む。
「後でコイツも縁側に持っていって、月、一緒に見せてやりましょう」
「あんまり綺麗な月だから、そのまま飛んでくかもしれないな」
クスリと笑い交わして、掌の木菟を食卓に置いて、
代わりに酒器を持ち上げた室井が、青島に差し出す。
「あ、すいません」
慌てて席に戻り、ぐい飲みを取り上げた青島に酒を注いで遣りながら、
何気ない風を装って室井は言った。
「和久さんに、よく礼を言っておいてくれ。
 それから、やっぱり庭では流石にちょっとどうかと思ぞ。
 隣に、用意してあるから」
「はい、任しといて下さい。
和久さんには、室井さんがよろしく言ってたって言っときます。
そうですね、庭はちょっと拙いでしょうからね・・・
って、ええっ!?用意!?」
驚いた青島が、飲み掛けた酒を取り零しそうになる。
手酌で自分の杯を満たした室井は、それを口元に運びつつ、
アワアワしている青島の背後を指差した。
え?後ろ?」
四つん這いで背後の襖へと急ぐ。
大きく開かれた襖の影、まだ畳まれたままの布団が二組ひっそりと。
バッと振り向いた青島の視線の先に、酒のせいでなのか?
それとも他の理由でなのか?
目元をほんのり染めた室井が、芒木菟をまた手で弄んでいる。
「む、室井さん?」
「さっさと飯食って、コイツと月見するんだろ?」
芒木菟を振ってみせて続ける。
「急がないと、コイツと一緒に私も月まで飛んでくぞ」
「室井さ〜ん!!」
情けない声を上げ、机も越えて、縋り付かんばかりの青島の
シャツの胸元を掴んで室井が囁く。
「今夜はしっかり、私の事を捕まえておけ」
見開いた青島の目に、何時にも増して艶めいた室井の笑顔が映った。
中天には触れられそうな程大きく、昼の様に明るい中秋の名月。

[ButhRoom 1]

「うぁ〜やっぱ極楽〜♪」
爺臭いと云われようと、疲れ果てた俺にとって事件解決後の風呂は最高だった。
それが署内の実用重視のシャワー室を長期の泊り込みの間使った後となれば、
実感が込もってしまうのもしょうがないと思う。
初めて親元を離れて一人暮らしを始めた学生時代、
就職後のサラリーマン時代と一念発起で警察官になってからの年月を
味気ないユニットバスで過ごしてきた。
けれどこうして室井さんと暮らすようになってからは、
再び懐かしい、[これぞ風呂!!]という広い浴槽に
身体を思う存分伸ばして浸かれる幸福を味わっている。

・・・味わってはいるが、一度知ってしまった幸福を
毎日味わうというわけにはいかないのが辛いっ!!
事件に大きいも小さいもないんだけど、
それでも俗に言う[大きな事件]が起きるとね★
用意よろしく着替えは署のロッカーにスタンバイしてあるし・・・・・。
今回も何日ぶりの自宅風呂だろう。
バキバキに固まっていた身体がジンワリと解れてゆく快感に、
ほ〜と魂が抜け出てるんじゃ?と自分でも不安に思えるほどの息が漏れた。

と、其処に足音が。
今は俺一人しか、この家には居ない筈。
すわ、泥棒か?!
選りによって警察官の家に、いい度胸じゃないかと思いつつ、
そっと手近の洗い桶を掴む。
まずは湯でも目潰し代わりに引っ掛けてやって、それから・・・・・
俺が段取りを考えている間にも足音は近づいてきていた。
そうして、そう!!
ガラッと開いた引き戸の、開けた本人の顔が在るであろう辺りに向かって
勢い良く桶の湯を!!
「!!」


「・・・・・」
ぼたぼたと頭の先から湯を滴らせて立ち尽くしているのは愛しい愛しい同居人だった。
「そ・・・そんな・・・・・室井さん・・・・・・・」
二筋ほど、湯の当った衝撃で落ちてきた髪を撫で付けた室井さんは、
相変わらず目を瞑ったまま、無言でその場に立っている。
「お、俺っ!!俺っ!!」
涙目で、素っ裸のまま立ち尽くす俺。
そんな俺に、髪を撫で付けた拍子に付いた指先の水気を室井さんがピッピと飛ばしてきた。
「ゴメンなさい、許して、勘弁して室井さん!!」
慌てて桶を放り投げ、室井さんに駆け寄ろうとした俺は、
思いがけず室井さんに突き飛ばされ、浴槽の中に頭っから引っ繰り返った。
口から鼻から耳の中へと一気にお湯が流れ込んで、溺れそうになる。
必死にもがいて頭を水面に、浴槽の縁に手を掛け身体を引き上げると、
後は激しく咳き込むばかり。
「ガハッ!!ゲハッ!!ゴホゴホ!!」
どれ程そうしていただろう。
漸く生きた心地がしてきて、それまでグッタリと懐いていた浴槽の縁から顔を上げれば、
いつの間にやら室井さんまでが素っ裸になって風呂場へと入ってくる所だった。
「えっ?えっ??」
何が何やら訳が判らずに動揺し続ける俺を横目に、
室井さんはさっさと洗い椅子に腰を降ろし髪を洗い始めた。
その背中は「話し掛けんな!!」オーラを発していて、俺はシュンと項垂れ、
室井さんのお許しが出るまで大人しく湯に浸かって待っているしかなかった。

いつもの倍速で身体まで洗い終わった室井さんのおかげで、
俺が茹で上がるにはまだ充分余裕のある頃にその声が降ってきた。
「詰めろ」
たった一言だったが低くて冷たい声音で、
温まっていた筈の俺の背中をヒヤリとしたものが駆け上っていった。

室井さん、まだ怒ってるんだね・・・・・ぐすん★

[ButhRoom 2]

ウチのお風呂、自慢じゃないけど広いんだよね。
成人男子が二人で入ったって平気、平気。
水道代やらガス代やらが勿体無いんじゃッて思う人もいるかもしんないけど、
ウチはほら、二人とも就いてる職業が職業じゃない?
公休はおろか、普段もちょっと時間があれば洗濯だ掃除だ、
日用品や食料の買出し等々・・・忙しいんだ。
結局、旅行どころか今は珍しくもないスーパー銭湯だって行けやしない毎日。
ウチに帰れない日だってざらに有るんだから、
コレくらいの贅沢は許されるだろうって、俺達思ってるんだよね。
せめてウチに帰った時位、ゆっくり・のんびり・広いお風呂に浸かろうって。

今、俺の真向かいには室井さんが目を瞑ってお湯に浸かってる。
洗い髪は、室井さんを僅かに年若く見せていて、
いつもの事ながら何とはなしにときめいていたりする。
それでなくてもこの所擦れ違い続きだったもんだから、
何時までもこんな状態は嫌だった。
そこでもう一度、謝罪の言葉を向けてみる事にした。
「さっきは、ごめ・・・」
「ふ〜〜〜」
さっきの俺みたいな、魂を持ってかれそうになってる人みたいな至福の溜息が、
意を決した謝罪の一言に被さって、先を遮った。
「む、室井さん?」
ぱちくりしながら室井さんを見たら、室井さんも目を開いて俺の方をじっと見返してきた。
まだご機嫌が戻ってないよ〜と天井を仰ぎかけた時、室井さんが意外な言葉を言った。
「ただいま」
あまりの思い掛けなさに、また俺はぱちくりしてしまう。
次に室井さんの口から放たれるのは、厳しいお叱りの言葉だと決め付けていたもんだから。
けれど室井さんの目は柔らかな笑いを湛えてくれていて、
それに気付いた俺は嬉し泣きしそうになった。
「おかえりなさい」
やっと口にした返事に、今度こそ室井さんの口元にも笑みが浮かぶ。
ああ・・・好きな人の笑顔って、ホント良いもんだなぁ。

「帰ってきたの、気付かなくってスイマセンでした」
「いや、私の方こそ声を掛けてれば良かったんだ」
「俺しか居ないって思ってたから・・・てっきり泥棒だと・・・・・」
「驚かしたんだな、すまなかった」
「いえ、俺の方こそって・・・あれ?
 そう云えば室井さん、今夜は本格的に帰ってきたんですか?」
「いや、着替えを取りに帰って来ただけの筈だったんだが・・・・・」
「す、すみません★」
「明日には全て片が付くんだが、流石に着替えのストックが底を付いた」
「あっちの捜査本部、明日には解散ですか?」
「ああ・・・だから後一日位、どうとでもなるかと思ったんだが結局な、取りに来た」
「俺が届ける・・・って訳にもいきませんもんね」
「ばか」
室井さんが両手で水鉄砲を作って俺に向かって飛ばす。
俺も負けじと応戦する。
一頻りお湯を飛ばし合った二人の、互いの情けない姿に苦笑が浴場に小さく響いた。

残響が消えるか消えないかの時だった。
向かいの室井さんが、急に俺の方に身を乗り出してきたと思ったら、
眼の前でクルリと俺に背を向け、そのままその背を俺に預けてきた。
柄にもなく、ちょっと焦る俺を、次は言葉で室井さんが煽ってくる。
「どうしようかと思ってたら、君のトコの捜査本部が無事に事件が解決して
 解散したって連絡が入って・・・この時間にはもう帰ってるだろうから、
 顔くらい見れるかと思って着替えを取りに帰って来た・・・・・」
斜め後ろからなので顔が見えないので、どんな顔をして言ってるんだかって思ったが、
見る間に赤くなる耳やら、日頃日に焼ける機会がなくて俺より遙かに白い項やら
平均より一回りは小振りな肩やらで容易に想像できた。
「・・・・・風呂に一緒に入る予定なんか、これっぽっちも無かったのにな・・・・・」
我慢できずに、後ろからキュッと抱き締める。
「久しぶりに会えて、箍が外れた・・・・・」
あんまり可愛い事を腕の中で囁くように言ってくれたから、
俺も抱き締める腕に力を込めて、せめて口付けを貰えないかと
覗き込む様に顔を近づけた。

「うあ★」
今日何度目かの水鉄砲に当った。
「悪いがオアズケだ」
「ええ〜ッ?!」
我ながら情け無い声。
「そろそろ迎えが来る頃なんだ」
「そんな〜!!」
「だから・・・風呂は予定外だったと言っている!!」
「俺・・・俺ッ!!もう、その気になっちゃったっスよ!!」
・・・・・つい、云わなくても良い事まで言ってしまった。
バッと振り向いた室井さんは、止めの水鉄砲を俺に浴びせると
後をも見ずにとっとと風呂場を後にした。
狙い済ましたそれは、見事に俺の顔面にヒットした。

ゲホゲホと未練たらしく咳き込んでいたら、いつの間にやら着替えのすんだ室井さんが
浴室の入り口の磨りガラスから顔を覗かせた。
「じゃ、行ってくる」
「・・・ケホ、行ってらっしゃい。気を付けて・・・・」
涙目のまま送り出す言葉を口にする。
「行ってらっしゃい」「行ってきます」
「ただいま」「おかえり」
何が有っても、俺達は互いにこの言葉だけは大切にしたかったから。
室井さんは、髪だけはまだ生乾きの前髪も下ろしたままの姿。
その前髪を掻き上げて、はにかむ仕草でソッポを向いて言った。
「すまないな・・・キスだけじゃ私は満足出来そうに無かったから」
今度は俺が真っ赤になる番だった。
「明日は出来るだけ早く帰ってくる」
俺につられたのか、益々真っ赤になった室井さんは、
如何にかそれだけを言い残し、脱衣場からも姿を消した。
廊下を足早に去る音が聞こえ、先程は気付けなかった玄関のベルのチリチリいう音が遠く聞こえ、
遂には自分の居る浴室に備え付けのシャワーの水滴のポタリ落ちる音以外は聞こえなくなった。

離れていた時間には見合わない程の短い再会の時間を思い返しては、
自然と口元が綻ぶ。
明日は自分も調度非番なのだ、美味しい夕飯でも用意して、
温かいお風呂を風呂桶一杯、並々と沸かして待っておこう。
きっと喜んでくれるだろうから・・・・・・

茹で上がりそうな長風呂の最中、飽きる事無く明日のプランを練り続ける俺は、
湯当り寸前の、実は結構ヤバイ状態だった。

[水遊び]※ご注意下さい、[一×新]です★

青島が寄ってきて言った。
「新城さん、暇そうですね(ニッコリ)」
青島の隣では、室井さんも笑っていた。
「な、なんだ?!」
最初は不承不承。
でも、やり始めてみれば案外楽しい。
だから私は思い切り、リストさえ利かせて手にしていた柄杓を振り切った。
「・・・おい」<br>地を這う様な声。
聞き覚えの有り過ぎる声。
「一倉さん?!」
「お前ぇぇぇ・・・」
頭から雫を垂らした一倉さんの、恨めしそうな声はまだ続く。
「何で貴方が」「何でお前が」
「ココに居るんだー!!」
私は目一杯胸を張って、目の前の大男を見上げて言い放った。
「私はこの家の住人達に、是非一度でいいから食事に来てくれと請われたんです」
「ははは〜俺は常連だぞ〜」
「ナッ?!」
「今日だって、室井達から来てくれって言われたから来たんだぜ」
底意地の悪そうな笑いが続いた。
「随分、楽しそうだったじゃねぇか」
「え?」
「お前さんのガキの頃、見せて貰ったみたいだったぜ」
「ええ??」
「気持ちいい位のハシャギっぷりだったじゃねぇか」
「!!」
私は思わず、真っ赤になって俯いた。
慌てて背中に隠した柄杓。
今更だったけど、そうせずにはいられなかった。
「思い掛けないもん、見せて貰った」
ハッと顔を上げると、目の前数センチで一倉さんが優しく笑っていた。
「また、見してくれや」
今度は別の意味で、頬が染まる。
居た堪れず私は、手に持っていた柄杓で訳もなく一倉さんの頭をポコリと一つ。
後は脱兎の如く室井邸の玄関へ駆け込んだ。
「お〜い新城、水遊びはもう仕舞か〜?」
暢気に私を呼ぶ声が聞こえた。
玄関の戸の前で仁王立ちになって私は叫んだ!!
「私は[水撒き]してたんだー!![水遊び]ナンかじゃなーい!!」
一倉さんが、また声を上げて笑い出した。
チェッ−★

[眼差し]

「気に食わない」
室井さんから言われた。

「その目付きが気に食わない」
ちょっとした事でもめた後、最後に一言。

カチンときた。

「あ〜スイマセンね、目付き悪くって!!」
くっと室井さんの眉間が寄せられた。
自分でも、機嫌の悪いときの目付きの悪さが
凶悪犯のそれと同じくらい悪いって知ってる。
でも室井さんだって、結構目付き悪いよ。
自分で気付いてないの?
ふん!!
俺は謝んないからね!!
最後にもう一睨みしちゃうぞ!!

チラチラチラチラ・・・・・(エンドレス)
気になって仕方ないんだよね。
一戸建てといっても、僅かな部屋数しかない家。
完璧に一人になれる場所といえば、自分の部屋か、
トイレの個室か、せめて浴室くらいか?
だから、さっきもめた事なんか
きれ〜に忘れちゃったみたいな様子の室井さんが
眼の前をあっちへこっちへと動き回るのを見たくなければ、
そのどれかに篭るしかないんだけど・・・だけど・・・・・
普段なかなか一緒に居れないんだ。
やっぱり姿を見れるだけでもなんだかドキドキしちゃうっていうか。
視線が勝手に追っかけちゃうっていうか。
室井さん、さっきはゴメンね。

だから気付いて。
こっち向いて。

あ、こっち見た♪
想いの込められた眼差しって言うのは効くのかな?
あれ?でも相変わらず眉間の皺は消えてない??
って事は、まだ怒ってるんだな。
う〜ん、どうしよう・・・・・って、え?何??
眉間の皺はそのままだけど、なんだかその眼差しは。
さっきと違うね?
ちょっと困ったみたいな。
しょうがないなって言ってるみたいな。
優しい眼差し。
見る間に口元にも笑みが広がった。
俺も笑う。
きっと今、俺が室井さんに送ってる眼差しも、
優しい眼差し。

[そんな二人の、とある日常1]

都内某所の一軒家。
その家では、階級的にはかなりな差のある二人が、
建前上、[同居]という形で同じ屋根の下、暮らしております。
これは、そんな二人の、とある日常。

「起きてますか〜♪」
同居人の片割れが、もう片方の同居人の自室の前で
機嫌良さ気な声で呼び掛けた。
非番の重なった今日、朝食を用意したのは湾岸署勤務の彼の方。
昨夜、帰宅の遅かった同居人を、休みの日位は
出来るだけゆっくりと寝かせたやりたいと思っての事だった。
しかし、それだけ相手の事を気遣ってやっているのなら、
彼が起きてくるまで、そっとしておいてやればいいのにと思うのだが、
何故に、敢えて声を掛けるのか?
実は、先方から云い付けられている事であったからだった。
例え非番の日であろうとも、自分から起きてこない場合、
或いは「明日は起こさないでくれ」と前もって言われてでもいない限りは、
遅くとも8時には声を掛ける様にと頼まれているのだ。
調度、台所に在る時計が8時を知らせている。
最初の呼び掛けへの返事が聞こえなかったので、
青島は今度は扉を2度ばかりノックしてみた。
それから、もう一度声を掛ける。
「朝飯、出来てますよ〜?」
すると、今度こそ部屋の中から返事が返ってきた。
「もう、起きた。
 顔洗ったら行くから」
「は〜い、待ってま〜す♪」
如何にも起きたばかりな、彼にしては僅かに篭った様な声。
けれども体調が悪いとか、気分が優れないという感じではなかったので、気に病む事も無く、
ならば自分もレンジに掛けてある御御大付けの鍋でも温めて待っていようかと、
踵を反し、鼻歌なぞを歌いながら台所へ向かった。


それから15分後。
「「いただきます」」
声はピッタリ同時に。
(但し、その声は片方が遥かに大きい)
けれど一方は目を閉じ、両の手を合わせて軽く頭を下げてから、
ゆっくりと眼を開け、それから箸を取る。
もう片方はというと、すぐさま箸を取り上げ、
それからそれを合わせた両の手の親指と人差し指の間に挟み、頭をペコリ。
後は目の前の食卓に並んだ食事に取っ掛かる。
朝食の用意といっても、仕事の忙しい男二人が暮らしているのだし、
第一に、朝食に然程の料理が並んでいる訳ではない。
基本はご飯に御御大付け、御新香に、海苔。
後はその時の料理担当が冷蔵庫を覗き、有る物で何かもう一品を用意する程度だ。
その日によって、もう一品は納豆であったり、干物の焼いたのであったり、
貰い物やら、ご近所の家庭菜園の収穫物のお裾分けで作ったサラダやら、
でなければ前日の残り物の温め直しであったり。
その日その日の何かしらが用意されている。
因みに、休み等で前日の翌朝の料理担当が決まっている場合は、
なるべく相手の前日に食べた物やら、食べたい物やらを
リサーチしてみたりという事もよくやった。
これも何故かというと、同居しているとは云っても、
仕事柄と役職、当直だってあるし、加えて職場の在る場所等の違いで、
一緒に食事をとるのは中々に大変で稀な事、
夕食を一緒に取るのは勿論、日に一度、
一日の始まりである朝食を共にする事さえ難しい毎日だったから、
相手が一人きりで取った朝食や、職場の仲間達や上司と取った昼食、
或いは夜勤で取った店屋物やら、一体何を口にしたのか分からないから、
だからこそ、一緒に食事をする時位は、二人して同じ物を食べたかったし、
それでいて出来る限りこの数日の互いの食事とは重ならない物をと思っての事だったのだ。
今朝の食卓には、同居人が何気なく言っていたのを覚えていた物を用意した。
目にも鮮やかな黄色いふわふわの出汁巻き卵と、
ご近所さんからの貰い物の小松菜のお浸しが、
天辺にタップリの鰹節を乗っけて用意されていた。
「好物の豆腐と葱の御御大付け、御代わりありますから」
テーブル越しの言葉に、調度、お椀を口元に持っていっていた同居人が、
縁に唇を付けたまま、上目遣いにそうかという風に見てきた。
一口啜る。
「今日も美味いな、後で貰うな」
御御大付けをコクリと飲み込み、そう言ってにっこり笑う。
「はい、ジャンジャン食って下さいね」
笑顔に釣られてコチラもにっこり笑ってみせた。

ふ、と片方の笑顔が消えた。
大好きな笑顔が消えてしまった。
只々じっと見てくる。
すると今度は、もう片方の笑顔までもがその顔から消えてしまう。
「・・・・・どうしたの?」
案じて、恐る恐る問い掛けてみる。
だが返事がない。
もう一度、問い掛ける。
「どうしたの?」
前よりも、大きな声で。
返事の代わり、中身を溢さない様にテーブルに戻された御御大付けの椀を持っていた手が、
徐にテーブルのコチラ側へと伸ばされてきた。
一瞬、ビクリとしながらもじっとしていれば、その手の指先が辿り着いたのは唇で。
何だか今度はドキドキしてきてしまった。
「ん」
「へ?」
今度はズイと目の前に持ってこられた指先に、一粒のご飯。
「弁当なんか持って、何処行くつもりだ」
そういってクスリと笑う。
「え・・・あ・・・・・」
返事に窮している内に、指先のご飯はパクリと笑う彼の口の中へ。
「あ・・・・・」
「?」
「いや、何か新婚さんみたい・・・・・」
「・・・・・」
言ってしまってから、カーッと頬が熱くなる。
きっと自分は真っ赤なんだろうなと思っていたら、
見る間に指先を銜えたままの相手の方も真っ赤になって、
ナンだかもう二人して居た堪れなくなった。
「何言ってんだ」
ちょっと怒った風な、でも照れているのがモロに分かっちゃう口振りで片方がボソリと言うのに、
「ゴ、ゴメンナサイ」
そう謝罪の言葉を口にしながらも、口元がにやけてしまって仕様が無いもう片方は、
それを隠すみたいに、また大急ぎで残りのご飯を掻き込み始めたのでした。

そんな二人の、とある日常。


[そんな二人の、とある日常2−1]

都内某所の一軒家。
その家では、階級的にはかなりな差のある二人が、
建前上、[同居]という形で同じ屋根の下、暮らしております。
これは、そんな二人の、とある日常。



夏は苦手だった。
あくまで[苦手]なんであって、[嫌い]なのではない。
北国生まれで、大学を卒業するまでだって北国に居た。
だからなのか、それとも東京の夏が特別なのか、
とにかく私は夏の厳しい暑さが苦手だった。
夏なのだから暑いのは当たり前なんだが、今年は特に暑いと感じていたし、
実際、テレビや新聞、マスコミのどれもこれも、
庁舎の同僚や上司、所轄の刑事達や手伝いの婦警諸君、
道で会うご近所の皆さんも口を揃えて、顔を合わせればこう言った。
「今年は、殊の外暑いですね」と。
やはり、私だけが思っている事ではないらしい。
長い事捜査していた事件の特捜本部が解決により解散し、
今日は昼までで帰宅となったのだが・・・・・。
駅から家までの道は、真昼の陽に焼かれ、
寝不足と汗に翳む視線を前方に動かしてみれば、
ゆらゆらと陽炎さえ立っていて、また「暑い」と心の内で唸ってしまった。
それでも足さえ前へ前へと動かせば、家に帰り着く事は出来るわけで、
炎天下の中、どうにか私は自宅へと帰りつく事が出来た。



しかしそこで、再び気が重くなった。
目の前には石段。
私の暮らす家は道路とは幾分かの高低差があって、
一般の住宅の一階に当る部分には大振りの石で石垣が組まれており、
其処に石段が据えられ、それを昇りきった所にやっと内玄関が在るという造りの家だった。
普段の私ならば何の事はない十数段程度の階段が、草臥れ果てて帰宅した者の目には、
最後に控えていた最強・最大の関門に思えてならなくて、
見上げた先、階段の天辺に在る外玄関の格子戸を、
何故、其処に在るんだと、
何故、其処まで昇らにゃならんのだと、
恨めし気に睨み付けるけれども、そんな事をしても目の前の憎らしい階段が
消え失せるわけは無く、盛大な溜息が漏れる。



諦めて昇るしかない。
一気に勢いを付けて昇ってしまおう。
そう覚悟を決めて階段を昇り始める。
いざ昇り始めてみれば、あっと言う間に外玄関の格子戸へと辿り着く事が出来た。
今はもうすっかり馴染んだ萱葺き屋根の格子戸を引き開け、
軽い力でもスルスルと開く戸を潜って中に入り後ろ手に閉じた。
そのまま戸に寄り掛かって目を閉じれば、
相変わらず疲れはしていたが、家に帰ってきたのだと、
体がホッと安堵しているのが分かった。



「室井さん」
名を呼ばれた気がして、パチリと目を開く。
周りと見回せば、内玄関脇の、庭へと続く枝折戸の所から、
同居人が顔を覗かせ、私を見ていた。
そして、私と目が合った途端、ニッコリ笑う。
「お帰りなさい」
いつも、こんな瞬間だ。
私が胸の痛くなる程の幸福を感じるのは。
大切な人に貰う言葉。
「ただいま」
私も、今のこの身の内の君に対する想いや幸福を、
欠片なりとも届かぬものかと思いながら、
君へと返す言葉。


[そんな二人の、とある日常2−2]

盛夏の真昼時である。
「室井さん、こっちこっち」
君が私を呼ぶ。
「こっち来て」
枝折戸の向こうから、同居人の君が
おいでおいでするみたいにして私を呼んでいる。
「?」
君の物言いは、強い言い方でもなかったのに、
何故だか「疲れているから後にしてくれ」と言えなかった私は、
君に呼ばれるまま、枝折戸に近付いた。
戸を開けて私を待っていてくれたのに、「ありがとう」と言って中に入る。



其処は、今ではもうすっかり見慣れた庭だった。
何の変化も見られず、どうした事かと不思議に思いながら佇んでいたら、
鞄と上着が手から取り上げられ、空いてしまった手を取られ、
エスコートされるみたいにして縁側まで連れて行かれ、
挙句には、座って待っている様に言われた。
何が何だかまるで訳が分からなかったが、とにかく言われた様に、
私はこの家の家主自慢の庭が一等よく見える座敷の前の縁側へと
一人きり、腰を下ろして彼の戻ってくるのを待った。
沓脱ぎ石の上に両足を揃えて乗せ、
手持ち無沙汰な両の手をその膝に乗せ。



何処から飛んできたのか、蝉が鳴いている。
その鳴き声に、暑さがますます増長されるみたいに感じて嫌になる。
目の前に広がる夏の庭が眩しくて、
草臥れ果てている私はシバシバと何度か目を瞬いた。
そうしている間も、家の奥の方からは、
君が忙しなく動き回る音が聞こえている。
一体、何をしているのだろうかと思いはするが他の問い掛けをしてみた。
「今日は、何してたんだ?」
少し大きな声で。
「えーっとですね、まずは洗濯しました。
 それから簡単に掃除機掛けたり。
 ほら、お互いこの所忙しかったでしょ?
 ハンパじゃなく。
 だから、まずは何はさて置きと思ってやっちゃって、
 んで洗濯機が回ってる間に掃除をね?
 こう、チャチャ〜ッと」
数日前見た、脱衣場脇の洗濯物入れの辺りの惨状が目に浮かんだ。
「・・・・・あれ、全部やっちゃったのか?」
「はい、やっちゃいました♪」
少し身体を前のめりにして、チラリと縁側からの死角の物干しスペースを見遣れば、
普段の何倍もの量の洗濯物が、夏の日差しに当てられているのが見えた。
真っ白なシーツ等は寝不足気味の目に痛いほどだった。
「それから、物置にも行ってました」
「物置?」
「はい」
「何しに?」
不思議に思って聞けば、
「これまたなんですけど、忙しさのせいで遅れていた
 『真夏の暑さ除け対策用品探し』に」
「『真夏の暑さ除け対策用品探し』?」
会話中も相変わらず、奥からは君がアチラコチラへと動き回っている音がしている。
「物置に、葦簾とか探しに行ってました。
 もうね、頑張っちゃいましたよ俺。
 埃払ったり洗ったりも済ませちゃってますから、
 いつでも直ぐに使えますよ」
これまた辺りに目を凝らせば、葦簾が準備万端で隅に立て掛けてある。
「それからね、前にも使いましたけど、
 切子の酒器やらお素麺に良さそうな器やらね、
 おばあちゃんに使っていいって言ってもらってたから、
 アレコレ涼しそうな物見繕って、出してきたりしてたんですよ。
 早速、昼飯のお素麺、それでもって食べましょうよ、ンね?」
「・・・・・」
返事が出来ずに黙り込んでしまう。
「あれ、室井さん?
 えっと、聞こえました?
 昼飯の事?
 室井さ〜ん??」
気配がしたので振り向けば、台所の出入り口の所に掛けてある暖簾から、
君が顔だけを覗かせて、心配そうにこっちを見ているのと目が合った。
私は慌てて言い繕う。
「あ、ああ、うん。
 涼しそうな器で食べる食事なら、きっと食も進むだろうな」
「でしょ、きっと美味いですよ♪」
何事も無い風に言ってくれるのに、心底感謝する。
折角の休みの日に、ゆっくり休養も取らずに朝から働き詰めだったらしい彼。
勿論、一人暮らしでも洗濯や部屋の片付け等はしなきゃならない事だろうが、
同居するという事は、仕事の量もその分増えるという事で。
この所の互いの忙しさは知っていたし、
外勤で動きまわっていた筈の彼の疲労の程度は
草臥れ果てている自分以上だろうにと思うと申し訳なさに、
思わず詫びの言葉を呟いてしまった。
「・・・・・すまなかった」
「え?なに?」
私が考え込んでいた間も動き回っていた彼には、私の呟きは聞き取れなかったらしい。
けれども私は、再び彼に聞こえる様に詫びの言葉を口にする事はなかった。
そんなものを欲しがる彼ではなかったし、
聞けば返って気を使わせてしまう事を知っていたから。
他人の為に動く事を厭わない男。
それが私の同居人であり、恋人だった。


[そんな二人の、とある日常2−3]

庭木に誘われ寄って来た蝉は益々元気に鳴いていて、
まるで喚き合っているみたいだ。
じわりと、また体温が上がった気がした。
元々の家人の趣味で造られた庭は、
季節毎に見ごろの花や木が植えられていて、
真夏の今も凌霄の花(ノウゼンカズラ)の一際鮮やかな色が
何もかもを白っぽく見せる苛烈な程の陽の光の中で咲いている。
オレンジ色の花を眺めている間に、傍らに人の気配が在った。
視線を遣ってまず眼に入ったのは、
久々に水拭きされて光沢の戻った縁側の、
古びてはいるが飴色に光沢の在る木目も美しい廊下と、
それから私のそれよりは軽く一回りは大きな、
少し筋張った、長めの指が特徴の彼の裸足の足。
ゆっくりと視線を上げてゆけば、柔らかい光を湛えた瞳が
優しく私を見下ろしていた。



「お待たせしました」
そう言って笑う彼に、私も笑って返す。
「それは?」と。
彼は手に、木で出来た湯桶の少し大きい位の桶を抱えていたのだ。
「ああ、これですか?
 直ぐ分かりますから、ちょっと失礼しますね」
それだけ言うと、沓脱ぎ石の上に揃えてあった下駄を履いて、
彼は庭へと降りてしまった。
何をするつもりかと彼を目で追えば、彼はクルリと私の方へ向き直り、
手に持っていた桶を下駄が無くなって空いた沓脱ぎのスペースに置いた。
未だに彼の行動の意味の分からない私は、黙って彼のする事を見守るばかりだ。
と、急に彼が屈んだかと思うと、私の片方の足を掴んだ。
「な、何を?!」
イキナリな事に驚いてしまう。
すると、彼はニッコリと笑って見せた。
「大丈夫ですよ。
 別に不埒な真似をしようってんじゃないっすから。
 ちょっとね、どうかなって思ってた事を実行してみようかと思って」
また、ニッコリ笑う。
「ふ、不埒な真似って何だッ?!」
「だ〜か〜ら〜、違いますって」
僅かに赤面して掴まれた足を引きそうになってしまった私に苦笑しながらも、
彼は次の行動に移る事にしたらしい。
屈んで掴んだままだった私の片方の足から、そっと靴を脱がせた。
そうしてスラックスの裾を膝の辺りまで捲り上げ、靴下も脱がせてくれた。
それからもう片方の足も同様に。
次はどうするのかと、今はもう興味津々で次の行動を待てば、
今度は裸足になった両足の足の裏に手を当てられ、
くすぐったいと思う間もなく、持ち上げられたそれらは、
彼の用意してきた桶の中へとそっと下ろされたのだった。



「はぁぁ」
思わず、吐息が零れた。
気持ちが良過ぎてだ。
桶の中には、程好い冷たさの水が入っていた。
冷た過ぎるのでもなく、かといって生温いというのでもなく、
本当に今の私にとっての最適な温度の冷水が用意されていたのだった。
「掃除しながらラジオ聞いてたら、容疑者捕まったってニュースやってて。
 きっと、暑い中帰ってくんだろうなぁって思って用意してたんです。
 気持ち良いですか?」
「ああ、気持ち良い」
「なら、ヨカッタ」
もう一度、嬉しそうに笑った彼は、靴を濡れない場所にと動かして、
私の足の浸かっている桶の中に手を入れてきた。
止める間もなく、その手で私の足を擦る様に、揉み込む様に、
指と指の間までを丁寧にマッサージするみたいにして洗ってくれた。
「こうすると足からリラックスできるし、ほてりも静まるでしょ?
 足の方から涼しくなっていけば、段々に身体の方も涼しくなりますからね」
「・・・・・」
私は黙って、一心に私の足を洗ってくれている彼の頭の旋毛の辺りを見詰めていた。



どれ位、そうしていただろう。
「さ、そろそろいいかな」
徐に、彼がジーンズの腰の所にでも挟んでいたのだろう、
手拭いを引っ張り出し、それを自分の片方の膝の上へと広げた。
「あんまり冷やしすぎてもどうかと思うし、
 昼飯の素麺も伸びちゃいますからね、今日はこの辺にしときましょう」
そう言いながら、私の濡れた足をまずは片方、
自分の膝に広げた手拭いの上へと取り出した。
乾いた手拭いの感触が、素足に心地良い。
ほてった足を水に付けた時とは、また別の心地良さだ。
素早く、けれども決して乱暴な扱いでなく、
彼が私の足の水滴を丁寧に拭ってくれた。
そうしてもう片方。
手拭いで包むようにして大雑把異に水滴を吸い取り、
足の指の一本一本を根元から、指先に向かって拭きあげてゆく。
最後の小指まできて、私は始めてくすぐったさを感じ、
ピクリと小さく身を引くみたいに反応してしまった。
ずっと下を向いたままだった彼が、ゆっくりと顔を上げて私を見た。
目に痛い程の夏の日差しの下、ついさっきまで私を見ていた柔らかな眼差しは、
見る間にその色を変えて私を掴まえた。



ピタリと、蝉の鳴き声が消えた。



互いに、目を逸らす事なく見詰め合う。
私に目を据えたまま、彼が膝の上に残していた私の片方の足を
捧げ持つみたいに持ち上げた。
視線を絡ませ合ったままでも、その光景は私の目の端々に映っていた。
やがて直ぐに、足の指の先に熱く濡れた感触。
背筋を、悪寒にも似た震えが駆け上がり、
冷えた筈の体温が、一気に上昇する。
ジワジワと、頭から浴びせる様な蝉の声が降ってきた。
「ああ・・・暑い・・・・・」
私は隣に在った柱に凭れかかり、耐え切れず目を閉じた。



酷暑は、まだ当分続きそうだ。


お帰りはブラウザで